『忘却症のための記憶』(7)

 外国人ジャーナリストたちが根城にしているホテル・コモドアで、アメリカ人記者がわたしに質問する。「この戦争の最中に何を書いているのですか、あなたのような詩人は?」

  ――わたしの沈黙を書いています。
  ――いまは銃がものを言うときだということでしょうか?
  ――そうです。その音の方がわたしの声よりも大きいのです。
  ――そのとき何をするのでしょう?
  ――断固とした信念を呼び起こすのです。
  ――そしてこの戦争に勝つのだと。
  ――いいえ、大切なことは持ちこたえることなのです。持ちこたえることそれ自体が勝利なのですよ。
  ――そしてその後は?
  ――新しい時代が始まります。
  ――それで、いつ詩を書くことに戻られるのでしょう?
  ――銃声が少しでも静かになるときに。あらゆる声に満たされたわたしの沈黙をわたしが爆発させるときに。わたしが適切な言葉を見つけたときに。
  ――そのときにあなたの役目があるのですか?
  ――いや、詩にとってのわたしの役目がないのは今なんですよ。わたしの役目は詩の外部にあるのです。わたしの役目はここにいること、市民や戦士たちと共にね。

 知識人の中にはこの包囲が、かれらのツケを払ったり、かれらの持つ有毒なペンを大学の胸元に突きつける良い機会だと気づいたものもいる。わたしたちは虚しく叫ぶ。「けちな真似はやめろ!ベイルートを包囲したのは物書きじゃないんだ。こいつらの怠惰や逃避がビルを住人の上に倒しているのでもないぞ。かれらの書いてるものは、最悪でも文学なんかじゃないし、最良でも対空砲なんかじゃない」。「いや、違う」、かれらは言う。「これは作家や詩人に対する、かれらが革命的であるかどうかの最初で最後のテストなのだ。あるいは、いま詩が生まれるべきなのか、それとも生まれる機会を失うのかどうかの」

 「だったら何でホメーロスにイリアードやオデュッセイアを書くことを許したんだ?」。わたしはかれらを皮肉った。「そして、何でアエスキュロスやエウリピデスアリストファネストルストイや、いろんなひとたちに許可を与えたんだ?同じやり方で逆らうやつなんていやしない、作家なんだぞ!かれがいま書けるなら、かれにいま書かせろ!そしてかれが後で書けるのなら、かれにあとで書かせろ!そしてもしあなたがわたしの思ってることを言うのを――だれも非難することなしに――許可するのならわたしは、傷つき、渇き、水とパンと避難所を探しているひとたちは詩を求めることはないと言うよ。そして戦士たちもあなたの詞に気を取られることなんてないさ。歌おうとあなたが願おうとも、黙っていようと欲しようとも――わたしたちは戦争の埒外にいるのさ。でもわたしたちの中には、ひとびとに別の奉仕を用意する力があるんだ――20リットル缶いっぱいの水がゲニウスの谷と同じ価値があるように。*1いま人間たるものが献身すべきことは何なのか、創造的表現における美なんかじゃない。だから、あなたたちの中傷なんてもうたくさんだ!批評家の神経が壊れて、それでかれがベイルートを去ったからってそれがどうしたって言うんだ?劇作家が怖くて道を渡れないからって?詩人がリズムを失なってしまったからって?批評家が自分の詩や劇の崇拝者じゃないからって、かれを包囲下に置いて、そしていまや中傷の砲撃にさらすのか?」

 わたしたちの中にある、かき回された声での戦いの叫び――詩人の引き受けた役目が出来事の報告者として、ジハードの扇動者として、あるいは戦争特派員として残されているのであれば――に接続された文化的な残りのものに応答して、アラビア語の環境が過熱する戦争の中での詩の問いかけを引き起こしてくれるようになるだろう。あらゆる戦いはこの問いかけを立ち上げる。「詩はどこにある?」。詩の政治的概念は、その歴史的文脈にもかかわらず、出来事の観念によって混乱させられるようになるのだ。

 そしてこの特別な瞬間が、わたしたちや知識人の体を引き裂くジェット機の失なわれてしまった身体の上でのはばたきとともに、詩に空襲に匹敵する、あるいは武力の均衡を引っくり返すだけのものを要求するのだ。もし詩が「いま」生まれないとすれば、いったい「いま」の価値とは何なのか?この問いかけは易しくもあり難しくもあり、複雑な回答を要求してくる。たとえばあるひとつの場所で、あるひとつの言葉と身体の中に生まれるであろう詩があり、しかしそれは喉や紙に届くことはない、ということを許すと言うようなものだ。この無垢なる問いかけは、無垢なる答えを求めている。この――仲間たちの中で――沈黙を守るとあえて発言しようとする詩人を暗殺したいとする欲望に満ちているという答えを別にすれば。

 この空襲のさなかに、独特な作品をつくる詩人の役目を守ろうとして、こんなおしゃべりをして時を無駄にしなくてはならないのは苦々しいことではないか。かれの現実との関係が、開かれたものとして根づいているからこそ、わたしたちはすべてのものが話すことをやめてしまうまさにこの瞬間、ひとびとの叙事詩が自らの歴史を磨き上げる、分かち合われた想像力の瞬間に何かをなさねばならないのだ。ベイルートはそれ自体が作品なのだ、熱狂的で創造的な。真の詩人、真の歌い手とは、弦の切れたリュートによって慰められることも励まされることも必要としない人民であり戦士のことだ。かれらは作品というものの純粋な創始者であり、その英雄的な行為や驚嘆すべき生の言語的等価物こそを、長い長い時間にわたって探し求めなくてはならない。どうすればかれらは新しい作品――それをつくるには充分に暇な時間が必要なのだけど――を水晶化させ形を与えられるのだろうか、こんなロケット弾のリズムが覆う戦いの中で?そしてどうすれば古典的な韻文――そしてこのとき、あらゆる韻文は古典的だ――が、いま火山の腹で腐っていこうとしている詩を定義できるのか?

 忍耐せよ、知識人よ!生と死への問いかけこそがいまは最上のものであり、意志への問いかけは戦場に向かうあらゆる武器へと働きかけ、実存への問いかけは神聖かつ即物的な形を取る――こうしたものは詩と詩人の役目へ倫理的な問いかけよりも重要なものなのだ。そしてその問いかけが、わたしたちが開かれた時間に対して抱く畏怖を讃えるべく、適応する。その時間とは、ひとつの岸からほかの岸へと、ひとつの存在の形からほかの形へと、人間という存在を変化させる時間なのだ。その時間はまた、古典的な詩が、いかにその謙虚な沈黙を新しく生まれてくる目の前のものの中に保つことができるのかを知るためにも、適応していくのだ。そしてもし知識人が狙撃手に変わるためにそれを必要とするのなら、その時はかれらに古い概念を、古い問いかけを、古い倫理を撃たせるがいい。わたしたちはいま、説明するためにここにいるのではない、説明されるためにここにいるのと同じくらいに。わたしたちは完全に生まれつつある、でなければ完全に死につつある。

 一方、わたしたちの親友であるパキスタン人、フェイーズ・アフマードはほかの質問に忙しかった――「画家たちはどこにいるんだ?」

  「どの画家だい、フェイーズ?」、わたしは尋ねる。
  「ベイルートの画家だよ」
  「かれらから何が欲しいんだい?」
  「この街の壁にこの戦争を描いてほしいんだよ」
  「どうしちまったんだ?」、わたしはわめいた。「壁が倒れてるのに気がつかないのか?」

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なぜわたしは孔雀を見ているのか、この年老いた孔雀、よろよろと象牙の杖をつき、二丁のリボルバー武装して、プライドでふんぞり返り、軽蔑に酔いしれ、涎塗れの王冠に魅せられたこの孔雀を?

 なぜわたしはこの年老いた孔雀を見ているのか、色とりどりの羽をした泥棒、わたしの脳髄に短剣を突き差す間に抑えた微笑みでわたしを買収しようとするこの孔雀を?

 なぜわたしはこの年老いた孔雀を、わたしに汗の香りとアラク酒を振り撒き、その下の墓に滑り込もうとしてわたしの靴に口づけするこの孔雀を見ているのか?

 なぜわたしはこの年老いた孔雀を、わたしの心を見抜く視界を得ようとして椅子と壁に手を伸ばし、レモンの悲しみを盗み出し、そしてそれを決して到着することのない船の船長に密輸しようとする、その船をいまだ到着することのないノアの箱舟と勘違いするこの孔雀を見ているのか?

 わたしはなぜこの年老いた孔雀を、屠殺された馬の靴を履き美しく飾られて、名誉のメダルを受け取る孔雀を見ているのか?

 わたしはなぜこの年老いた孔雀を、二丁のリボルバー――ひとつはわたしを殺すため、もうひとつは自分のあさましい尻のため――で武装した孔雀を見ているのか?

 わたしはなぜこの年老いた孔雀を見ているのか?

 わたしはなぜ孔雀を見ているのか?

 わたしはなぜ見ているのか?

 なぜ?

   ==========

 わたしの書斎は燃え落ちていた。海からの砲撃がそれを炭の倉庫に変えてしまっていた。わたしたちが到着する数時間前に燃えていた。どこでぺちゃくちゃとおしゃべりをする場所を見つけたらいいものか?戦争にせよ休戦にせよ、わたしたちが永遠に呼び入れるものは――おしゃべりなのだ。どこでそれを続ければいいのか?わたしたちが撤退するのか、しないのか?知識人たちはこの問いかけがかれらによるものだと、そして持ちこたえようとする計画の中にかれらのエネルギーが充満していくのを見守ることこそが素晴しいことなのだと考えている。かれらは政治的決定に対する拒否権を有していると信じているのだ。かれらの中には「アル・マーラカ(戦い)」の出版こそがこの戦いの運命を握っていると確信するものもいる。*2かれらはこの玉砕的な説教壇こそが、このねじれを支配する歴史の目撃者となるだろうと決心しているのだ。何とかれらは美しいことか!何と美しい!

 11時、2万砲撃と、そして30秒。わたしたちは燃え尽きた書斎から燃え上がる空の下に出た。空は大地を燻った抱擁で抱きしめる、空は融けた鉛のように重く、何もない暗い灰色の中を、銀色の機体をまばゆい白に輝かせたジェット機だけが、オレンジ色の遺留物とともに貫いていく。優美な飛行機だ、すらりしとして、皺の寄った空をしっかりと乗りこなす。

  「行こう!」、Zが言う。
  「どこへ!」、わたしは尋ねる。
  「何か探しに」、かれは言う、「昼飯だな、とりあえず」

 何て事態だ?恐ろしい。撤退の状況は屈辱的であり、そしてわたしたちは策略をめぐらしているだけなのだ、ただ時間を買おうとして。いったいいくらで?いくらでも。弾薬の切れた対空砲でもって、軍事科学すら動揺させる若者たちの英雄的行為と狂気をもって。でもどのくらいまで?起こりえない何かが起きるまで。何も変わらなかった。わたしたちは今でも孤立しているのだ。やつらはベイルート市内に進軍してくるのか?いや、しない。かれらはその状況に耐えられないほどの大きな損害を負うだろうから。しかし市の端あたりに噛みつくくらいのことはする。美術館近辺を狙い、失敗した。防衛隊の士気が高い、きわめて高い。まるで悪魔のように。かれらは外からの助けなど諦めている。かれらはアラブ世界からの何らかの動きも諦めている。かれらは戦略的バランスなど諦めているのだ。*3こうして、かれらは取り憑かれたかのように戦った。撤退の話はかれらに届いているのか?そうだ、しかしかれらは信じてなどいない、単なる策略だとかれらは言い、そして戦い続ける。そしてかれらは気がついているのだ、いまや世界を頂上にそびえ立つ沈黙が、かれらにそこから話すようにと説教壇を用意していることを。かれらの血が、かれらの血だけが、この日々を語るものだ。わたしたちは「アル・マーラカ」で何を、こんな交渉と撤退の話など書くべきだろうか?わたしたちは戦うことと持ちこたえることをこそ呼び求める。わたしたちは持ちこたえることと戦うことを呼び求めるのだ。

 ベイルートは外側から、イスラエルの戦車とアラブの公的勢力の麻痺によって囲まれ、闇と恐喝の中に叩き込まれた。ベイルートは渇いている。

 しかし、ベイルートの内側では、ベイルートの内側からは、ほかの現実が準備されている。それが気力を保たせ、それが喜びの光を守るために銃を掲げさせるのだ、アラブの希望の首都という意味の。

 「ベイルートを救え!」をモットーに掲げるひとびと――悪魔的で口達者で、口あたりの良い毒のように致命的な――によって、この希望がアラブにとってのマサダ砦」において自殺させられるべく企てられている。かれらの勝利の頂点において自殺を遂げるというお話だ。「ベイルートを救え!」のスローガンの発案者たちにとっての唯一の条件とは、捨て去ることが降伏だということ。歴史の教える降伏の意味とは血に塗れるということだ。それは、怒りのすべての降伏。それは、すべての武器の降伏。まったく犠牲のない降伏。

 しかし恐喝産業の玄人たちは、この絶望の意味を、そしてその結果がどうなるのかを知っているのか?わあいたちはここで恐喝の仕返しの話をしてるんじゃない。わたしたちは、自分達や、わたしたちの敵や、わたしたちの同盟者の神殿を引きずり倒そうとしているんじゃない。ただ、わたしたちは、自分たちの唯一の条件、唯一の自由を交渉のテーブルにもう載せているのだ――そしてわたしたちは戦い続ける。

 ベイルートは人質ではない。そして、ベイルートの、バリケードの内側でわたしたちは、その未来においてすべての世代のひとびとの静脈をめぐる血が新しくなることを抜きにして、命を懸けているわけではない。だから、わたしたちにはほかの選択肢がないのだ、わたしたちの実存の現在の状況――わたしたちの武器――を押し進めることのほかには。諦めてしまうことはわたしたちの実存の道具を、わたしたちの血の砦に灯された炎を守るすべを、抑圧的な体制によって早くも眠りについたアラブの大陸を目覚めさせるわたしたちの能力を、敵に渡すということなのだ。

 わたしたちがベイルートという要塞で持ちこたえること、不屈であることは、ふたつの大海の間に広がったアラブの巨人を目覚めさせる唯一の手段なのだ。それだけが、銃口から、戦士の軍靴の穴から、この暗い時代に灯りをともす傷者から見えてくる唯一の地平線なのだ。

 こうして、こうしてわたしたちはベイルートから、数百万の怒りから包囲を引き揚げる。

 こうしてベイルートは、内側から見えてくる、外側から見えてくるものにはまったく似ていないものとして。

 「こうしておれたちは書いてきたんだ。いまおれたちは何を書くべきなのかね?」
 「まったく同じことだよ」、Zはためらわずに言った。
 「それですべての住民は何を思うのかな、ベイルートのひとたちは?」
 「持ちこたえることを考えてるさ」、かれは言った。
 「持ちこたえることを考えてる、おれたちが撤退するまでは」、わたしは言った。「それを無視できるか?」
 「いや」、かれは言った。「無視できない。でもおれたちに何ができる?おれたちに何ができる?」
 
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 普通ではあり得ない音が鳴り響く、ほかの音より遥かに大きいというだけでなく、まったく異っていて彼方から響くものだったのだ。その場所をひったくり駆け抜けていく音。空間と空虚を容易に切り裂いていく音。

 さあ、行こう!この数日、ラウシュに足を向けてはいなかった。広い大通り、人通りもなく、その場を踏む足がないせいかいつもよりも広く見える。まるで海自体の持ちものにでもなってしまったかのようだ。煙を上げるビル。炎が上から落ちてくる。天地が引っくり返ってしまったかのような大火。上の階から助けを求める声がわたしたちに届く、はっきりと突き刺すように。火とビルの瓦礫に包まれた人間はたいてい最初の一撃のショックで壊されてしまう。あれは救急隊があそこにいて、人体が鉄とセメントとガラスで練り物に捏ね上げられてしまうことから救おうとしているのだ。

 わたしは負傷者が集められた場所から顔を背けることができなかった。血が地面に流れ、そして壁には凶悪な裂け目。わたしは救いようのない感情を捨てることも和らげることもできなかった。激しい混雑。市民防衛隊の雑役兵が仕事の邪魔になるから立ち去ってほしいと言ってくる、そしてジェット機が戻ってきて、このおいしそうな群集を食い物にするだろうと。熱湯が、抱えていた怒りから湧き上がり、わたしの顔を濡らす。友人がわたしの腕を掴んだ、「来い!ここから出るんだ!」

 やつらがまた襲ってきた。再びやつらは襲ってきた。何という日なんだ。史上最長の一日なのか?わたしは反対側のビルを見た、最後に目に映ったわたしの書斎だった。

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海からの波。わたしはこのバルコニーから自分の目で、それがラウシュ岩――恋人たちの自殺の名所――にぶつかり砕けるのを眺めていたものだった。

 波は最後の数文字だけを運び、青き北西と蒼き南西へと戻っていく。その岸辺へと戻り、自らを純白の綿で刺繍し、そして砕ける。

 海からの波。わたしはそれを見つけ、長きにわたって追いかける。ハイファやアンダルシアに着く前に疲れてしまうのか。キプリスの島の岸辺で疲れて休息を取っている。

 海からの波。それはわたしではありえない。そしてわたしは、わたしは海からの波ではありえない。

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わたしがどんなにわたしの書斎を愛していたことか、最初から破壊に脅かされていたことか!「どんなプレゼントが欲しい?」。鉢植えと薔薇。花と鉢植え。わたしはそれを巣のように作った。わたしはそれを雑誌に載った文章のようにしたかった、黄色い紙の上の茶色い文字、そして海が見える。わたしはそれを野生の馬の背中に結ばれた花瓶のようにしたかった。わたしはそれを詩のようにしたかった。しかし壁に絵を飾る間もなく、自動車爆弾が爆発し、すべての調度を滅茶苦茶にした。そしてまた、頭を左肘に乗せて休み、コーヒーを待とうとした途端に、外に出ている自分に気づいたのだ。爆発の轟音がわたしを以前のように持ち上げ、ペンとタバコを持ったまま、わたしを安全にエレベーターの前に残したのだ。シャツに薔薇の模様が付いているのに気づいた。1分後、わたしは書斎――いまやドアもなく、割れたガラスと飛び散る紙で満ち溢れた空間になってしまった――に戻ろうとしたが、2度目の爆発の衝撃がわたしをエレベーターの側に留めたのだ。若い守衛がピストルの射撃で爆発に返事をした。「何してるんだ?」、わたしは尋ねた。「自分の銃を撃ったのです」、かれは答えた。「何に向けて撃ったんだよ?どこにあるんだ?」わたしは聞いた。たぶん、今までだれもかれにそんな質問そしたことはなかったのだろう、だからかれはみんなのことを馬鹿ものだと思っていたのだ。しかし、それがいつものことだった。わたしたちの即座の、無意識でたぶん本能的な、あらゆる出来事や暴力的感情――見慣れぬものとか、単にボールをぶつけられたとか――に対する返答とは空に向けて銃をぶっ放すことなのだ。

 新たな殺戮がラウシュの近くであった――別の20人の死者がこの新たなる熱病で、自動車爆弾という熱病で――モサドと地元のその手先によって完遂された。この複数の車が侵略のための道を舗装したのだ。この包囲を自然状態へと転換する心理的土台を準備したのだ。この現代のトロイの木馬は、西ベイルートには安全も無事もないのだと一般に知らしめるためにいなないている。歩道に停められたあらゆる車は死の前兆を抱えているのだ。野蛮人を呼びこめ、いざ!

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海からの波がわたしの手の中にある。それは漏れ出し流れ出す。それはわたしの胸の岩の周りを進み、近づき、くつろぎ、降伏する。わたしの胸の体毛にぴったりとくっつく、源流へと戻ることのないように。熱くそして湿っている。波はリンゴを食む猫のようだ。かの女は理不尽なほどの軽薄さでわたしにキスをする――「あたしにはあなたを愛する権利があるの。そしてあなたにはあたしを愛する権利があるのよ」。愛は権利じゃないよ、子猫ちゃん、そしておれはもうぴったり40だ。。かの女は隅へと退却する。「そしてあたしは、男性を追いかける女性の半月なの」。熱くそして湿っぽい。ただその小さな体の体温は調節されていて、冬は温かく夏は冷たい。新しい海の岸辺のように新鮮な体だ、そこに生えた苔に小動物がまだ触ってもいないほどの。それは滑り、離れていく――燃え上がり、そして近づく。牛乳の芳香がわたしをそれから遠ざけている。「どうして8月を椅子の上に架けておかないの?どうして眠りの白さの中で泳ごうとしないの?」。かの女は目を夜の輝きで覆っている。きみが若いからだよ。「あたし若くないわ」。かの女は唸る。「あたしは男を追いかける、カルダモンの芳香にくっついていく女半月。どうしてあたしに泳ぐ権利がないの?」。でもこの白さは海じゃないんだ。かの女は怒ってリンゴと自分の爪に噛みつく。わたしは両の唇を指で集めて大きくなるようにした、キスへと変わるように。「ほら!あなたはあたしを愛してる。愛してるって白状しなさい。愛してるって言いなさい。それでどうしてわたしの潮を飲んでくれないの?」渇きがおれの精神の優雅さを粉々に砕いているからだよ。かの女は怒りだす、離れて隅にうずくまる。「詩なんていらない。詩なん嫌い。体が欲しい。体のかけらが欲しいの。この臆病者!」。臆病なのはきみのせいさ、おれじゃない。「あたしの持ってるもので何をしてくれるというの?あたしは自分のものなら自分の思い通りにできるわ」。かの女は立ち止まる。近づく。かの女の鳴き声ががさついてくる――「何か遊ぶものをちょうだい!人形をちょうだい!どんな人形でもいいから。小さな猫を、引き締まって頑丈な、その唾液があたしの胸に流れるまで両手で優しく動かすから」

 波は溺れ死にしそうだった、ただ紫の破裂が海の岩を揺らしていた。波は道へと辿り、そしてわたしは寝床へと辿った。

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*1:ゲニウス<ワジ・アブカル>の谷<あるいは渓流>はジン<イスラムの精霊、ひとびとに悪戯をする>が棲む場所であるとする伝説がある

*2:「アル・マーラカ<戦い>」は「パレスチナ人、レバノン人、そしてアラブの作家とジャーナリストがベイルートで編集する」出版で、包囲下のベイルートでの出来事を、1982年の6月23日から8月25日にわたって毎日掲載した

*3:「戦略的バランス」とは「アサド・ドクトリン」<シリア・アラブ共和国大統領・ハフェズ・アサドにちなむ>とも呼ばれるキャッチフレーズで、軍事的バランス――あるいは軍事的対等性――を得る前にイスラエルと軍事的に事を構えるのは不適当だとする考え方