『忘却症のための記憶』(6)

 わたしは愛国的熱情の発作を起こしている。

 その一方で、占領された空、海、松の木の山は、原初の恐怖とアダムの楽園からの脱出伝説、終わりなく繰り返されるエクソダスの伝説、に向けて砲撃を続けている。わたしはもう国を持たない――わたしはもう体を持たない。砲撃は賛美歌と死の対話を粉砕しようと続けられている、馬鹿げた疑問を費やす光のように流れる血をかき回しながら。

 わたしは何を探してるんだ?いっぱいの火薬と魂の怒りの消化不良。ロケット弾はわたしの毛穴を貫いて無事に出てきた。何て強力なんだろう!わたしが地獄の空気を吸い、煉獄の汗に塗れるかぎり、わたしはもうゲヘナ*1で息づくことはないだろう。しかし、わたしは歌いだしたい。そう、わたしはこの燃え上がる日を歌いたい、わたしは歌いたいのだ、わたしは自らを精神の鋼へと変える言葉を見つけたい――これら輝く銀の昆虫、ジェット機に抗う言葉を。わたしは歌いたい。わたしがそれに身を寄せ、わたしに身を寄せる言葉が欲しい、わたしに目撃証言を求め、わたしが目撃証言を求める言葉――この宇宙的な孤立に打ち克つものがわたしたちの中にあって欲しい。

 そしてわたしは歩き続ける。

 わたしは歩く。わたしが歩くのを見ながら、はっきりとした足どりで、わたし自身からすら自由で、通りの真ん中を、正確に真ん中を。空を飛ぶ化け物がわたしに向かって吠える、銃火の唾をかける、しかしわたしは無頓着だ。わたしはクレーターのようになったアスファルトの上のわたしの歩みのリズムだけを聞く。そしてわたしはだれにも出会わない。わたしは何を探してるんだ?たぶん、わたしの歩みを止め、眠れる街に敵対するものを攻撃するのは、孤独の恐怖や瓦礫の中での死の恐怖を隠した不屈のレジスタンスだろう。わたしはいまだかつて、かくも重大な朝の眠りにつつまれたベイルートを見たことがない。初めてわたしは木を見ている、幹と枝と多年生の緑の葉に覆われて見える木を。ベイルートはそれ自体が美しかったのか?

 運動、諍い、人混み、そして商業活動のどよめきがこんな受け取り方を隠してしまい、ベイルートを都市から観念に、意味に、表現に、表象に変えてしまってきたのだ。この都市は本を印刷し、新聞を発行し、世界の問題を解決するための講演と会議を開いてきた。しかし自分自身には何の関心も持たなかったのだ。あざけり砂を噛むような口調で目立つことと、すべての陣営に制止をかけることに忙しくて。自由のためのワークショップ、その壁は近代世界の百科事典を運んできたものだ。ポスターを作る工場だ。

 実際この街が、ポスター製作を新聞発行の域にまで高めた最初の都市であることは疑いない。それはおそらく表現上の力、死とカオスと自由と疎外と移民と人々の混合が形作る力がかくも充分に変えてしまったのだ、そして、かくも充分に、ポスターだけがつかんでしまう平凡な意見にすぎないものを超えていく表現の力をつくり出す余地から生まれた発言のための知れわたった方法をあふれさせているのだ。こうしてポスターは同期的な表現となった――詩と小説が担っていた特別な何かを伝えるためのものとして。壁の表面では殉教者たちがいきいきと生と新聞報道から身を起こし、ひとつの死それ自体がつくり直されている。ひとりの殉教者がほかの顔に取って代わり、壁の上の場所を手に入れる、また別のひとか、あるいは雨で消されるまでは。スローガンはほかのスローガンに場所を譲るか、あるいは拭い取られるか。スローガンは国家の優先事であり、政府の日々の業務なのだ。世界で起こることはここでも起こる、時に外で何が起こっているのかを映しつつ、時にその先例を追いつつ。2人の知識人がパリで口論したとすれば、それはここでは武装を伴う衝突になるだろう。ベイルートでは連帯意識がないと生きていけないし、何でもかんでも新しいものや、あらゆる更新された古いものや、あらゆる新しい運動や理論といったものに敏感だから。高速撮影された革命映画だ。ビデオがそのうってつけの道具。あらゆる分野の新しい指導者やスターが、ベイルートの新しい指導者やスターとして名を挙げられる。その壁は写真と言葉でいっぱいだ、そして通行人たちは、どんどん移り変わっていく経験の中から、かれらの息遣いをつかまなくてはならないのだ。

 こうしてここでのスターや指導者たちの王位は短い。観客たち――ここに観客など実際はいないのだけれど――が簡単に飽きてしまうからというだけではなく、その目指すところは反米であるのに、レースがアメリカ流で行われているからでもあるのだ。わたしたちが持っているのはすべての新しい意識、すべての新しい曲、すべての新しい流行を永続的に代表するもの――首の周りのチェーンにタバコのライターをぶら下げたジーンズ姿の女の子は不適切な左翼思想を映し出し、顔と手を覆うヴェールは伝統性あるいはカール・マルクスがいまや東からの風が吹くと証明したオリエンタリストを生み出した何らかの象徴に飛び付いたかという証し。これがベイルートだった。グローバルな転換の駅、ここではあらゆる逸脱が規範から、水とパンを手に入れたり死者を埋葬するのに忙しい一般大衆のための行動計画へと転化されていくのだ。

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わたしはだれひとり歩くもののない通りを歩いている、わたしは以前、だれひとり歩くもののない通りを歩いていたことを覚えている。そしてわたしは、わたしと一緒にいなかっただれかがこう言ったのを覚えている。

  ――この対話はやめだ、一緒に来い
  ――どこへ?
  ――この男に会う
  ――この男は何をしてるんだ?
  ――家に帰るのさ
  ――でもかれは前に進んで、それから下がってるぞ
  ――あれがかれの歩き方さ
  ――歩いてるんじゃないだろう。スウィングしてる、踊ってるんだ
  ――よく見てみろ、かれのステップを数えるんだ。ワン、ツー、フォー、セブン、ナイン、進む。ワン、ツー、スリー、セブン、エイト、戻る
  ――どういう意味だ?
  ――歩いてるのさ。これがかれが唯一知ってる家への帰り方なのさ。10歩進んで9歩下がる。つまり、1歩ずつ前に進む
  ――もし悩みとかあったら、数を間違えたりするのかな?
  ――そのときは家には着けない
  ――これに何か意味があるのか?
  ――いや、何も

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ホテル・キャバリエの近くで腕時計を見る、8時。詩人Y は目覚めているだろうか?だれが眠れるものか、こんな戦闘機の群れを頭の上に侍らせて。わたしは詩人が書くことができているのかどうかをやたらと知りたかった、どのようにかれはこの言語のための言葉を見つけてるというのか。Y は悠然とした映像的な毎日の詩を書いている、そしてかれは人間性の本質を示唆する細部をつかまえることができるのだ。かれは瓦礫から出てきた喜びをあやすことができる詩人だ、そしてそれを驚かすことも。そしてかれが書くときは、わたしがそうする必要をなくしてしまう。かれが、わたしたち自身が言いたいと願うことを代わりに言ってしまうからだ。かれはわたしを悲しみで満たしてしまう、その純粋さがわたしの中の何とも幸福な実体を目覚めさせてしまうから。そしてこの詩人が書いているかぎり、わたしは詩の中に有形の危機の証拠を見つけることができないだろう。要するに、かれはわたしと同じ類いの詩人なのだ。

 バグダッドで初めてかれに会ったとき、かれはわたしを殺そうとした。夕食の時にかれが飲んだものには口論を引き起こすものしか混ぜられていなかったから。かれには飲み物の違いなど分からなかった。すべてのアルコールは同じ、ビールだろうとウイスキーだろうとワインだろうとアラク酒だろうとジンだろうと――すべての飲み物は平常心を失なわせるのだ。そして夜の終わりが近づいたとき、かれはわたしたちをホテル・バグダッドに車で送り返した。かれには車でもチグリス川で泳ぐ権利でもどちらも手に入ったのだろうけど、わたしたちが目を見開いて警告の叫びを上げたので。「心配すんな」、かれはわたしたちの恐怖をなだめながら言った。「おれは今は灌漑局の職員だぜ」。「灌漑?」、わたしたちは尋ねた。「そう、灌漑」、かれは答えた。「灌漑」

 しばらくして、かれはバグダッドの灌漑局から、ベイルートの血液局に移った。わたしたちは詩の朗読会を一緒にやった、ベイルートやダマスカス、そして数週間前にはタイレのフェダイーンのキャンプで。昨夜、わたしはプラザ・ホテルの近くでかれを見かけた。夜の闇の中でかれはわたしの顔に懐中電灯を当てて叫んだ、「何でこんなところをひとりで、ボディガードも連れずにウロウロしてるんだ?」。「おれがボディガードと一緒にどこかへ行ったことなんてあったか?」、わたしは尋ねた。「で、ここで何してるんだ?」、かれは尋ねた。「タクシーを待ってるのさ、で、作戦室へ行くんだ」、わたしは返事をした。

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わたしはホテルのロビーで詩人を待っていた。しかしどうしてカタツムリがわたしの目の前を這いつくばっているのか?背の高いカタツムリで、そのたるんだ形を見せることを躊躇しなかった。ソファーや壁の上でその姿を見せびらかす、ピアノを弾く若い女性の上に緑色の涎をだらだらと垂らしながら。カタツムリは叫ぶ、カタツムリは笑う、カタツムリは酔っ払う、スクリーンの中に入り、スクリーンから出てくる。何ものにも向けられていないさまようような視線を早める。カタツムリは何も見ていない。壊れる。除ける。曲げる。曲がる。溜息をつく。ばらばらになる。カタツムリはよろめくゴムの足で動き回る。それでどうしてそのカタツムリが今朝わたしの顔に迫ってくるのか?神よ、このかくも醜き光景からわたしたちを守りたまえ!

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 詩人はイナゴに寄りかかられながら部屋から下りてきた。
 何だ!おまえもか!どうやってここに来た?わたしたちは抱き合う。眠りの楽園を振り払おうとかれの肩を叩く。「どうだい?」「ペシミスティックさ。何て変な日なんだ!連中は一瞬たりとも砲撃を止めやしない、空を踏み荒してるぞ。どこにいたんだ?」「自分のアパートさ」「狂ってる。どうかしちまってるぞ、友人よ。そこで眠れたか?」「明日はここで寝るよ。しかし必要なのはそんなことじゃない、この砲撃の成果ってのはカタツムリとイナゴだっていうのか?」「どういう意味だ?」「何の意味もないよ」。10歩進む、9歩下がる、合わせてみれば1歩前進。よし。それでよし!

 また1匹のイナゴ、怯えたやつが、わたしの膝に舞い降りた、ジェット機の恐怖にかきたてられた純潔の空気をまといながら、かの女は擦ってくるあらゆるものに擦り返していた。わたしはかの女に、ジョーク交じりで助言する――「今日は終わりのない一日になるぞ。連中は1万の作戦可能な千のジェット機を持ってるんだ。で、きみがその作戦にいちいちそんなに擦り返していたら、おれはひからびちまう。枯れきった男になっちまうよ」。わたしは詩人の方へ向き直る。「教えてくれ。どうして若い女たちはこんな最悪の状況で興奮してるんだ?愛し合うための時間なのか?愛し合うための時間なんかない、突然の欲望のためだ。ふたつのはかない体がひとつのはかない死――別の言い方をすれば甘美な死――をためらうために協力するんだ」

 わたしたちの親友Fがやってきて、フレーズの中に陥った詩人を引き揚げる手助けをしてくれる。「兄弟、不可能だよ。不可能。兄弟、絶対不可能なんだ」。かれは表現で吹き飛ばされそうで、窒息して、そのてっぺんに積み上げられていた。助けてくれ、F。Yが口ごもっている表現からおれを助けてくれ。わたしたちは突然笑いだした。わたしたちは笑いに笑い、ついにはピアノの若い女性を狼狽させた。「ピアノの時間じゃないぞ。笑う時間だ、あるいは詩の」。わたしたちはかの女に言う。「ジェット機の時間、カタツムリの時間」

 「ふたりとも書いてるのか?」、Fが尋ねた。

 Yは毎日書いている。かれはわたしたちに、かれの敏感な内心のカメラからのスナップショットのひとつを読んでくれた。かれはそれを持たずに出かけることなどないのだ。

 「おまえは?」、かれらがわたしに聞いた。

 「貯めこんでるよ」、わたしは言う、「喉が詰まりそうなところにね。で、友だち連中にからかわれるんだ『詩の役割って何だ?戦争が終わるときに何の役に立つ?』ってね。でもおれは叫びがどこにも行けないようなまさにそのときに、叫ぶんだ。で、その言葉がおれを撃つために、いろんな声が同じにはならない戦いの中に自分から入り込んでいかなくちゃならないんだよ。おまえの塞いだ声の方がいいよ、Y」

 ――しかし、何を書いてるんだ?

 「わたしは叫びを口ごもる」、わたしは答えた。

わたしたちの切り株――わたしたちの名前
ない。逃れることはない!
落ちたのは、仮面の上の仮面
仮面を覆っていたもの
落ちたのは仮面だ!
あなたに兄弟はいない、わが兄弟よ
友はない、砦はない、わが友よ
あなたに水はなく、そして救いもない
空はなく、血もなく、そして帆もない
正面はなく、そして背面もない


そしてあなたの封鎖を塞ぐのだ、逃れることはない!
あなたの腕が落ちた?
拾い上げ、敵を撃て!逃れることはない!
わたしが側に落ちた?わたしを拾い上げ
そして敵を撃て
あなたはいまや自由だ
自由、
自由
あなたの死者と傷者が
あなたの武器だ
それをもって撃て、あなたの敵を撃て


わたしたちの切り株、わたしたちの名前――わたしたちの名前、わたしたちの切り株
狂気とともに封鎖を塞げ
狂気をもって
そして狂気をもって
かれらは去った、愛するかれらは。去った
あなたは生きるべきものであり
生きることなきものでもあろう
落ちたのは、仮面を覆う仮面
仮面を覆うものが
落ちた、そしてだれもいない


あなたしかいない空間の広がりが
敵と忘却の病の間に開かれている
すべての銃を配置せしめよ、そして
あなたは家にいるんだ
いない!だれもいない!
仮面は落ちた
フランク人に従うアラブ人が
魂を売ったアラブ人が
失なわれたアラブ人が
落ちたのは仮面だ
仮面は落ちた*2

 「きみたちふたりはどこへ行くんだ?」、Fが尋ねた。
 「アデンさ」、Yが言う。
 「きみもか?」、Fがわたしに聞く。
 「わからない」、わたしは答える。

 沈黙。金属のように重く。わたしたちは3人だった、しかしいま、崩れ落ちようとするわたしたちの周りの世界の中でひとつになっていく。わたしたちはいわば危険物の番人としてここにいて、わたしたちの現実をそのまま丸ごと、わたしたちの視界の中で形作られる記憶の領域へと移動する作戦を準備しているのだ。そしてわたしたちが去っていくにつれ、わたしたちは記憶に変わっていく自分たちを見ることができるだろう。わたしたちはこのような記憶なのだ。まさにこの時、わたしたちはお互いを、それまでよりももっとブルーになってしまった憂鬱の中に消えていく遠い世界を記憶するように、記憶する。わたしたちは憧憬の音程の中へと別れていくだろう。わたしたち3人は真実を知っている――わたしたちはベイルートから引きずり出されたのだ。そしてわたしたちは、だれも視界の中で起こっていることを見ようとすらしないほどのつらい苦難を知っているのだ――ひとびとは間違いなくわたしたちと共にある、なぜならわたしたちは去っていくのだから。

 「おれは行かないよ」、わたしは言う。「どこへ行ったらいいか分からないから。どこへ行くのか分からないから。おれは行かない」

 「おまえは?」、わたしはFに聞いた。

 「ぼくは残るよ。ぼくはレバノン人で、ここがぼくの国だ。どこへ行けというんだい?」

 わたしは自分の質問に困惑した。そしてその程度には、ベイルートがわたしの歌であり、故国を持たぬあらゆるひとたちの歌になっていたのだった。そしてわたしは、「理想」の壮大なる両義性に困惑させられている。

その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群集がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群集は皆岸辺に立っていた、イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところがほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは4倍……


そしてイエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐んでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかしイエスは何もお答えにならなかった。そこで弟子たちが近寄って来て願った、「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」。イエスは、「わたしはイスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主と、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。そこでイエスはお答えになった、「婦人よ。あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。そのとき、娘の病気はいやされた。*3 *4

*1:訳注;聖書における地獄とされるエルサレム郊外の場所

*2:この詩は、明らかにベイルート包囲時に書かれ、「アル・カーメル」7号<1983>に発表されたダルウィーシュによる長編詩の一部である。題名は「高い影を讃えて」。『包囲下のエレジーのアンソロジーに収録されている

*3:マタイ福音書13:1-8,14:21-28、Revised Standard Editionによる

*4:訳注;原注の14:21-28は15:21-28の誤り。日本語訳は日本聖書教会「新共同訳」を元に一部英訳に合わせて変更した。なお、最初の段落の最後に「4倍」とあるのは通常どのテキストでも「百倍」と書かれている。この違いが英訳によるものか、あるいはダルウィーシュによる原文からのものなのかは不明