『忘却症のための記憶』(9)

 真空爆弾。ヒロシマジェット機での人狩り。ベルリンでナチ兵士によって征服された残りのもの。ベギンとネブカドネザルの個人的紛争の火花。見出しは過去と現在がごちゃまぜになり、そして現在を急かすように駆り立てる。未来はくじになって売られている。ギリシア人の運命が若者たちに待つようにと言って乗しかかる。公の歴史は所有者を持たず、それを受け継ぎたいと望むあらゆるひとに開かれている。この日に、ヒロシマの記念日に、かれらは真空爆弾をわたしたちの肉体の上で試し、その実験は成功したのだ。

 わたしがヒロシマについて記憶していることは、アメリカ人がその名前を忘れようとしているということ、わたしはヒロシマを知っている。わたしは9年前にそこへ行った。その街のある広場で、その記憶を語っていた。だれがヒロシマがここにあったという形でヒロシマを記憶しているのだろうか?日本語の通訳が「ヒロシマ・モナムール*1という映画を見たことがあるかと聞いてきた。「わたしはソドムから来た女性だって愛することができますよ、愛するにせよ遊ぶにせよね。かの女の護衛が窓越しにわたしを殺そうとしたってその女性を愛せますよ」。「意味が分かりません」、かの女が言った。「私的な空想ですよ」、わたしは言った。「で、ヒロシマはどこですか?」「ヒロシマはここです」、かの女が答えた、「あなたはいまヒロシマにいるのですよ」。「わからない」、わたしは答えた。「どうしてその名前が花で覆われているのですか?アメリカ人のパイロットがここに来て泣いたのですか?かれはボタンを押し、雲以外は何も見なかった。しかしかれは後で写真を見て、泣いた」。「人生ってそういうものでしょう」、かの女は言う。「でもアメリカは泣かなかった」、わたしは言った、「自分に腹を立てたわけじゃない、パワーバランスとやらに腹を立てさせられたんだ」。

 ヒロシマは明日。ヒロシマは明日だ。

 犯罪の記念館には殺人者の名を示すものは何もなかった――「飛行機が太平洋上の基地からやって来た」。これが慣れ合いとかへり下りとかいうものか。被害者たちは、名を必要としない。葉の落ちきった裸の人骨。骨でできた枝、形だけの。形式、そう形式だけの。数本の髪の毛が、ひとりの女性がそこにいたことを示す。壁の銘文が死の階層を解説する――燃やされ、燻され、毒をもられ、放射能を浴び。より世界的な殺人の予習。終末への準備。今日ではヒロシマ級爆弾の破壊力は原始的な核兵器とみなされるだろう。しかしそれは世界の終わりのシナリオを書くための科学的想像力を有効にしたのだ――巨大な爆発、巨人のような爆発、それが、山と涸れ谷と草原と砂漠と海と坂と湖と襞と岩と、詩的賛辞と宗教的儀式によって称えられた地上のあらゆる美しき多様性という地球上の組織立った混沌をもって、この惑星を初期段階の情報へと戻す。巨大な爆発の後、壮大な火が燃え上がり、あらゆるものを食い尽す――人間、木、石、あらゆる燃えるもの――そして立ち上る暗い煙は何日にもわたって太陽にしみをつけるだろう、空が黒い雨の涙を流すまでは、あらゆる生きるものへの毒となる核の雨の涙を流すまでは。そして地球は冷えていく、氷河期を迎える。いまの時代から氷河期への急速な移行の中では、ネズミとある種の昆虫くらいしか生き残れない。ある朝ネズミが目覚めると、かれは地球上を支配する人間になっていることに気づく。カフカが引っくり返ったのだ。そしてわたしは問う――どっちが残酷だ?人間が目覚めたとき巨大な昆虫になっているのに気づくのと、昆虫が目覚めたときに、原子爆弾をサッカーボールを扱うかのようにもてあそぶ人間になっているのに気づくのとでは?

   ==========

 ベイルートの空は暗く敷きつめられた金属のドーム。すべてを覆いつくされた真昼が片隅までも広がっていく。地平線は澄んだ灰色の粘板岩のように、何の色もないままジェット機が遊ぶのを手助けしている。ヒロシマの空だ。もし望むのならば、わたしはチョークを手に、この岩の上にあらゆる願いを書くことができるだろう。出来心がわたしを捕えて、高い建物の屋上に上ったら何と書こう?「やつらを通すな」?これはもう言った。「死は眼前にある。されど故国よ永遠なれ」?さっき言った。「ヒロシマ」?これももう言った。わたしの記憶と指先から滑り出す文字たち。アルファベットは忘れてしまった。わたしが覚えているのはこの6文字だけ――B-E-I-R-U-T。

   ==========

34年前、わたしはベイルートにやってきた。そのときわたしは6歳だった。かれらはわたしの頭に帽子を被せて、アル・ブルジ広場に置き去りにした。路面電車があった、わたしは路面電車に乗った。2本の平行する鉄の線の上をそれは走った、前へと動いた。わたしはこの大きくうるさいおもちゃが何で動くのか分からなかった――鉄の線が地面に敷かれ車輪がその上を回るのだ。わたしは路面電車の窓から外を見た。多くの建物と多くの窓を見た、多くの目に注視されながら。多くの木を見た。路面電車は動く、建物が動く、そして木も動く。路面電車が動くにつれて、周囲のあらゆるものが動いていた。路面電車は、わたしは帽子を被らされた場所に戻ってきた。祖父が慌ててわたしを引っぱった。かれはわたしを車に乗せ、そしてわたしたちはダムールに行った。ダムールはベイルートよりも小さく、もっと美しい街だった、海に大きく開けていたから。でもそこには路面電車がなかった。路面電車に連れてって!そしてかれらはわたしを路面電車に連れていった。わたしは海とバナナ農園のほかにはダムールのことを覚えていない。バナナの葉って何て大きいんだ!何てでかいんだ!そして赤い花が家の壁をよじ上っていた。

 10年前、ベイルートに戻ってきたとき、わたしが最初にやったことはタクシーをつかまえて、運転手にこう告げることだった――「ダムールに行ってくれ」。わたしはカイロからやってきて、少年の小さな足跡を探していた、以前のかれよりも大きな足取りで、年齢を保つこともなく、その歩幅よりも大きくなってしまった男の。わたしは何を探しているんだろう?足跡、それとも少年?それとも、まるでカヴァフィス*2がイタカを見つけられなかったように、それは見つからないのだと告げるためだけに、険しい山を越えてきたひとびと?海はそこにあった。もっと大きくなろうとしてダムールに押し寄せながら。そしてわたしは大きくなった。わたしはどこかに置き去りにして忘れてしまった、かつてかれの中にいた少年を探す詩人になった。詩人は年をとり、そして忘れられた少年に成長することを許そうとはしなかった。ここでわたしは最初の印象を収穫し、そしてここでわたしは最初のレッスンを受けた。果樹園の持ち主だった女性が、ここでわたしにキスをした。そしてわたしは、ここで最初のバラを盗んだ。ここでわたしの祖父は、新聞に帰還が発表されることを待っていた。しかしそれはついになかった。

 わたしたちはガリレーの村からやってきた。わたしたちは不潔なアーメシュの池の側で一夜を明かした、豚や牛の隣で。翌朝、わたしたちは北へ向かった。タイレでクワの実を摘んだ。そしてわたしたちの旅はジェジンで終わりを迎えた。わたしはそれまで雪を見たことがなかった。ジェジンは雪の農園だった、そして滝もあった。わたしはそれまで滝を見たことがなかった。そしてわたしはリンゴが枝にぶら下がっていることを知らなかった――箱に入って大きくなると思っていたのだ。これがほしい。あれがほしい。>わたしはそのリンゴを、山の麓から流れ出し、赤い瓦を戴いた小さな家の間の水路となる小川で洗った。冬になうと、身を切るような風の冷たさに耐えかねて、ダムールに移った。太陽は時自身から時を奪い、海は、夜になって夜の叫びを上げるまで、恋する女性の体のようにのたうっていた。

 少年は家族の元へと戻った、そこへ、遠くへ、その距離では、遠くにあるそこが見つからなかった。わたしの祖父は、柵の向こうの投獄された土地に視線を投げかけたまま死んだ。その表皮が、小麦とゴマとトウモロコシとスイカとメロンから、固いリンゴに変えられてしまった土地を。わたしの祖父は夕日と、季節と、心臓の鼓動をその皺がれた指で数えながら死んだ。かれはその齢に抗って枝に寄りかかることを禁じられた果実のように落ちた。かれらはかれの心を砕いた。かれはここで、ダムールで、待つことに疲れ果てた。かれは友人に、水パイプに、子どもたちに別れを告げ、わたしを連れて、もうそこでは見つかることのないものを探しに戻った。ここは異邦人の数が増えた、難民キャンプはさらに大きくなった。*3戦争が来ては去った、それから二つ、三つ、そして四つ。故郷はさらに遠く、遠くなり、子どもたちはUNRWAの粉ミルクを味わってからというもの、母乳から遠く、遠くへ行ってしまった。だからかれらは銃を買い、かれらの手の届くところから飛び去った故郷に近づこうとするのだ。かれらは、かれらのアイデンティティを存在の中へ、再―生された故郷へと戻し、そしてかれらの細道をたどる、それは内戦の防衛隊によって塞がれてしまうだけなのに。かれらは自分たちの歩みを守った。しかしそのとき細道は細道によって区切られてしまい、孤児は孤児の肌の中に住みつき、そしてひとつの難民キャンプがまた別のキャンプの中に入った。

   ==========

わたしには、ダムールの岩に自分の名前を刻むことなどできない、たとえそれが狙撃手によるわたしの人生の意匠として本のカバーに使われていたとしても。できない。そう、できはしない。だからこの写真家を岩の上からどけてくれ。この手の話をいまもそこにある海から遠ざけてくれ。わたしには、バナナの木のてっぺんからぶら下がるわれらの殉教者の死体の肩に幕を掲げることなどできない。そう、できない。「戦争は戦争だ」というのはわたしの言葉じゃない。ダムールでわたしは詩を読まなかった。「難民キャンプを切り離していくものに対して何ができた?」というのはわたしの疑問じゃない。わたしは、何であれダムールの岩に自分の名前を刻むことに興味はない、わたしは少年を探しているのだから、故郷ではなくて。*4

   ==========

ダムールの瓦礫の中で、殉教者の子どもたちとテル・アル・ザータールの生存者たちは、移動する避難所の連鎖の中のまた別の難民を見いだす。かれらは、かれらの疲弊と、失望と、ナイフが切り離すことを忘れてしまった体の一部を携えてダムールにやってきた。かれらは風に開かれた1平方メートルの眠れる場所と、愛国の歌を探しにやってきた。しかしこの原始的な短剣は忘れてしまったいた、この人間の継続性への砲撃を止めようとはしない戦闘機によって終わらされてしまったということを。すべての手本はどこにある?どこだ?虐殺から殺戮に至るまで、わたしたちのすべての人民を率い、そして今もなお子孫たちをガラクタの吹きだまる場所に押し込め、Vサインをかざし、結婚の祝宴の準備をするものは。

 爆弾には孫がいるのか?わたしたちだ。
 榴散弾の破片には祖父母がいるのか?わたしたちだ。

 10年にわたってわたしは、セメントの儚さの中にあるベイルートに住んできた。わたしはベイルートを解きほぐそうとした、そしてわたしは、ますます自分に対して無知になった。それは都市なのか、それとも仮面?追放者の場所か、それとも歌か?何と速く終わってしまうのだろう?そして何と速く始まってしまうのだろう?裏側もまた真実なのだ。

 ほかの都市では、記憶は1枚の紙に安らぐ。あなたはただ座って何かを待っていればいい、白い虚空の中で、そして過ぎ去った観念があなたに降り立ってくるだろう。それを、逃げられないように、つかまえる、そして日々が巡るにつれ、またあなたはそれに出くわす、あなたはその源泉を認め、贈り物をくれた都市に感謝する。しかしベイルートでは、あなたは流され、追い散らされる。器になるものといえば水それ自体だけだ。記憶は都市の混沌の形を想定し、あなたが以前出かけた言葉を忘れさせる演説をぶつ。

 あなたがベイルートを美しいと認めることは、まずないだろう。
 あなたがベイルートで内容と形式を区別することは、まずないだろう。
 それは新しくはない、そして古くもない。

 かれらが、「それ好き?」と尋ねてくるとき、あなたはその質問に驚き、自問する。「どうして注意を払わなかったんだろう?わたしはそれが好きなのか?」。その時、あなたは適切な感覚を探そうとして、そして疼きによって目が眩み、朦朧となる。ベイルートでは、あなたはそんなふうに自分を鼓舞する必要など、まずないのだ――そこではあなたは何の証拠も必要としないし、何の証明も必要としないから。そしれあなたは思い起こす、カイロだったらこの質問には、ただバルコニーに出ていって、ナイル川が今もそこにあるかを確かめればいいのだと。ナイル川を見たら、あなたはカイロにいるということだ。しかしここでは銃弾の音が、あなたがベイルートにいるのだということを告げる。銃弾の音と壁のスローガンの金切り声が。

 それは都市なのか、それとも何の見込みもないまま投げ出されたアラブの通りの難民キャンプなのか?それは何か他のものと一緒くたになっているのか?状況が、思考が、状態の変化が、テキストから生まれる花が、想像を落ち着かせることのない若い女性が。

 それが、誰ひとりとしてベイルートの歌を作曲することができなかった理由なのか?
 簡単なことじゃないか!

 たとえどんなにかの女が、言葉と、たとえ同じ歩格と押韻でも、組み合わされることに抵抗したとしても――ベイルートヤクート、タブート――「ベイルートサファイア、棺!」

 それともかの女が自分のことを気楽な通りすがりだと見なしているからといって、だれがかの女をかれの個人的な歓びだなどと思うものか?そのひとびとと名を忘れられたものたちが、他者に出合う驚きを奪われただけのことだ。

 わたしはベイルートを知らない、そしてかの女を愛しているのか、いないのかも分からない。

 政治的難民にとっては、取り替えも置き換えもできない椅子がそこにあるのだ。あるいは、もっと正確を期すのなら、その椅子には、取り替えることのできないひとりの政治的難民がそこにいるのだ。

 難民の商人にとっては、アラブの貧乏人に何かを約束する、そして二度とこちらに吹くことのない五分の風を発見する機会がそこにある。

 かれの国が極めて限定されてしまった、あるいはそのことに疲弊してしまった作家にとっては、どの前線で自分が戦っているのかを知らぬままに、自分の自由を信じる自由がそこにある。

 元・詩人にとっては、ピストルと護衛と、それから金を掴む可能性がそこにある。それでギャングのリーダーになって、ここで批評家を1人殺し、そこで別の1人を買収する。

 伝統的な若い女性にとっては、空港の出発口ランプの上のハンドバッグにヴェールを隠し、それから恋人のホテルの一室に隠れる可能性がそこにある。

 密輸業者には密輸するための。
 貧乏人にはますます貧乏になるための。

 ベイルートを訪れるすべてのひとは、自分だけの特別な都市を見つける、そしてわたしたちには分からない――だれが分かるものか――こうしたすべての都市の広大さがベイルートという都市をつくり上げ、そこではかれらの記憶や個人的関心が終わってしまったとかれらが泣くことで、泣くべきひとたちが泣くことをしないのだということが。

 たぶんこのやり方で――アラブ人が自分の国ではなくなってしまった何かを探しにやってくるやり方――この正反対のものが出合う場所が曖昧な名付けへと、あるいはそれを使って息づこうとするひとびとや殺し屋や犠牲者たちが混ぜこぜになった肺へと変わっていった。これこそベイルートが唯一性と特殊性とを祝う歌となる意味だ。多くはない数の恋人たちが、かれらは本当にベイルートに生きているのか、それともかれらの夢の中に生きているのかと尋ねてくる場所で。

 ベイルートについて、誰もかの女を知らない。そしてたぶん誰もかの女を探してはいない。そしてたぶん、たぶん、かの女はそこにいさえしない。戦争の中でだけ、誰もが誰も知らないかの女に気づいた。そしてベイルート自身が、かの女はひとつの都市ではなく、ひとつの故郷でもなく、あるいは隣り合った国々の出合う場所でもないと気づいたのだ――ひとつの窓と向かい合ったもうひとつの窓の間の距離が、わたしたちとワシントンのそれよりも大きいことがありえるのだと。そして1本の通りと別の平行する通りとの共倒れの争いが、シオニストとアラブ民族主義者との間よりも緊張に溢れることがありうるのだと。

 戦争の中でだけ、戦士たちはベイルートとともにベイルートの平和を迎えることは不可能だと気づくのだ。

 そして休戦の中でだけ、戦士たちと監視人たちは、戦争に終わりがないこと、そして勝利――敗北の均衡の外側での――が不可能だと気づくのだ。

 おそらく誰もが、ベイルートにはベイルートがないことに気づいている――この石の上に座った女性はひまわりのようにかの女に属していないものを追いかける。恋人たちも宿敵たちも同様に偽りの外見の周囲に引きずり集め、時にはかれらと共にあり、あるいは敵対し、また別の時にはかれらと共になく、敵対もしない。

 それは未だ形となっていない形のための形なのだ、その中にある戦争――その周囲にという意味だ――は今、勝利し、今、敗北するのだから。なぜならば、不変のものは変わるものであり、そして永続するものはつかの間のものであるのだから。

 あるいは波をつかまえる。ラウシュの岩の上に置き、壊す。あなたが見つけるものは、あなたの手が始まりも終わりもない魔法のゲームの中に沈んでいくであろうということだけ。

 質問 それは鏡なのですか?
 回答 波が岩に適おうとする限りでは。
 質問 それは道なのですか?
 回答 詩が通りであろうとする限りでは。
 質問 それは嘘をついているのですか?
 回答 信じられないものを信じようとするときは。

 長い戦争の間、かの女をはっきりと見分けることができた。流血と銃火の向こうに、それらの顔が、鏡に反射するそれとして、それまでに見せたことのないような、そしてそれらの反射の源をも変えてしまうようなものとして見えてくると、その時のわたしには思えたのだ。ベイルートが、水上のあるいは砂漠の真ん中の島であるかのように、わたしには思えたのだ。部族が火の踊る周りに輪をつくり、故郷へと向かう部族の隊列に向けて忠誠を誓うかのように。故郷の観念が国家の観念の一部へと変わり、国家がその実存の自己―証明的状態を発見するように、まるで誰が、あるいはどこが敵であると知るかのごとく。この殉教者たちが、この新しい言葉が、そしてこの巨大な灰の集積が、わたしたちのために少なくとも徴をつくり出しているかのように、わたしには思えたのだ。変化が始まり、地域主義の殻が砕け、そして真珠が、真髄が、自ら現れると思えたのだ。

 そう、その時、わたしにはそう思えたのだ。
 そう、わたしにはそう思えたのだ。

   ==========

*1:アラン・レネ監督作品「二十四時間の情事

*2:訳注;カヴァフィスは、コンスタンチヌ・P・カヴァフィス<1863-1933>、ギリシャの詩人。「イタカ」はオデュッセイアに範をとったかれの代表作。邦訳は「カヴァフィス全詩集」中井久夫訳、みすず書房、1991がある

*3:難民について、デイヴィッド・ギルモアは"Disposessed: The Ordeal of The Palestinians<「持たぬもの パレスチナ人の試練」、London: Sphere Books,1982>の74ページでこう述べている。「難民の正確な数は、いまだに確定されていない。国連経済調査団の報告では726000人とされ、国連パレスチナ調停委員会難民事務局は900000人としている。実際はこの間のどこかの数字となるであろう。1948年の冬、戦闘の終了にともない、おそらく800000人近いパレスチナ人が家を失なった……。かれらは数週間、悪くとも数カ月で帰宅を許されると期待していた」。スミスは"Palestine And The Israel Conflict"<「パレスチナイスラエルの紛争」>の154ページで、本作で言及された時点での難民の状況を以下のように述べている。「パレスチナのアラブ人は、以前の故郷から離れて暮らし、今は難民として、公式の同情と非公式の疑念を受けている、それはかれらが定着したほとんどの国でかれらの孤立を招くことになった。追放中のパレスチナのアラブ人の大部分は、1956年には500000人以上、ヨルダンに住み……200000人近くが、エジプトの支配下にあるガザ地区に押し込まれ、移動を制限された。1956年には100000人近かったレバノンへの難民は、市民権を恵まれることもなかった、キリスト教マロン派を指導するエリートたちが多くのムスリムを人口に加えることを恐れたためであった」

*4:テル・アル・ザータール難民キャンプの陥落後<4回の注4>、海岸都市ダムールはパレスチナ武装勢力の手に落ちた。ダルウィーシュはここで、ダムール占拠の正当化<「戦争は戦争だ」>、支配の簒奪<指導者たちはかれらの写真を撮らせた>、かれらが犯した残虐行為<死体がバナナの木からぶら下がる>を厳しく批判している