『忘却症のための記憶』(2)

 わたしはもはや、この海からやってくる鉄のような唸り声がいつ止まるのかなどとは考えなくなった。わたしはビルの8階に住んでいる。どんな狙撃手だって狙ってみたくなるような、もちろん、海を地獄の源泉に変えてしまった艦隊にしたって同じことだろう、そんなビルにだ。このビルの北側はガラス張りになっていて、居住者たちに海上の波濤の美しい景色を見せるようになっている。しかし、いまやそのことは、容赦なき殺戮に対する盾が存在しないということでもあるのだ。どうしてこんなところに住むことにしてしまったのだろう?何て馬鹿げた質問だろうか!わたしはここにもう10年も住んでいて、その間ガラスの醜聞についてなど、一度も不満を抱いたことなどなかったのだから。

 しかし、どうやって台所にたどりつこう?

 わたしはコーヒーの芳香が欲しい。コーヒーの芳香以外の何も欲しくない。そして、いま、わたしは過ぎ去った日々がわたしにもたらすあらゆるものよりも、コーヒーの芳香が欲しいのだ。コーヒーの芳香こそがわたしをわたし自身として留めてくれる。自分の脚で立った、這いつくばる何ものかから変身し、人間という存在にしてくれる。コーヒーの芳香こそがわたしを、この夜明けに起こったことへの自分の役割に耐えさせてくれる。そしてわたしたち、この一日とわたし自身、は共に街へと下りていき、別の場所を探すだろう。

 どうやってわたしのこの部屋にコーヒーの芳香を漂わせることができるのか?海上の艦船から、この海に面した台所に向かって弾丸が降りそそぎ、火薬の悪臭と何もないことの味わいを振りまこうとしている、この最中に。わたしは二つの艦船からの時間を測った。1秒。1秒。息を吸い息を吐く間よりも短い時間だ。心臓の鼓動二つ分。1秒はわたしにとって、海に面したガラスの外装の側のストーブの前に立つには充分に長い時間とはいえない。1秒はわたしにとって、水のボトルを開けて、水をコーヒーポットに注ぐには充分に長い時間とはいえない。1秒はマッチを擦るには充分に長い時間とはいえない。しかし1秒はわたしにとって、燃え上がるには充分に長い。

 ラジオを切った。もうこの狭い廊下の壁が、ロケットの雨からわたしを実際に守ってくれるかなどと考えるのはやめた。この壁が、人肉を探し、直撃し、窒息させる金属に満ちた空気――榴散弾の破片から隠してくれたからといって何になる。こういう場合には、単に暗いカーテンこそが想像の安全壁としてふさわしい。死とは、死を見ることなのだ。

 わたしはコーヒーの芳香が欲しい。わたしには1杯のコーヒーをたてるための5分の休戦が必要だ。わたしには、1杯のコーヒーをたてるほかには何の個人的な望みもない。この狂気に導かれ、わたしは、わたしの義務と目的を定義する。わたしのすべての感覚を照準に合わせ、わたしの渇きをたったひとつのゴールへと前進させる。コーヒー。

 コーヒー。わたしのような中毒者には、それが一日の鍵となるのだ。

 そしてコーヒー、わたしと同じような人なら分かるだろう、それは自分でたてるもので、トレーに載せられて運ばれてくるものではない、なぜなら、トレーを運んでくるひとは、言葉を運ぶひとでもあるからだ。そして最初のコーヒー、静かな朝の処女、は最初の言葉によって汚されてしまうのだ。夜明け、わたしの夜明けはおしゃべりとは正反対のものだ。コーヒーの芳香は音によって遮られ、黴臭いものになってしまう。もし優雅な「おはよう」以外の音が聞こえてしまったのならば、

 コーヒーは朝の静寂、早々にして急かされず、静けさだけがあなたを安らかに保つ、創造的で、たったひとりで立ち、いくらかの水とともにあなたは気怠い孤独へと到る。小さな銅のポットから神秘的な輝きを注ぎ――黄色が茶色へと変わっていく――あなたは小さな火の前に立つ。ああ、これが薪の火ならばよかったのに!

 火の前から離れ、パンを求めて目覚めた街を観察する。まるで類人猿が木から自らを解放し、2本の脚で立ち上がったかのように。通りは果物や野菜を積んだ荷車で溢れている。物売りたちの叫び声は気の抜けた賛辞を書き留め、それはやがて農産物を単なる値段のついたものへと変えていく。また少し下がって、冷たい夜の残した空気を吸い込む。そして小さな火の前に――薪の火ならばよかったのに!――戻り、二つの物質が接触していくのを愛と忍耐をもって眺める。緑と青に彩られて火と、小さな白い細粒を立てて湧きたち息づく水。やがてそれは1枚のフィルムへと移り変わり、大きくなる。ゆっくりと拡大し、それから泡となって膨らみ大きく大きくなっていき、そして壊れる。膨らみそして壊れ、渇きを癒やすかのようにスプーン2杯分の粗挽きの砂糖を呑み込み、それが浸透するやいなや、すぐにも小さくシューッと音を立てつつ泡は静まる。再びチリチリとコーヒーそれ自体にほかならぬ本質の叫びを上げる――きらめく雄鶏のごとき芳香と東洋の男らしさである。

 ポットを火から下ろし、片手の対話を続ける。タバコとインクの香りの自由、この最初の創作とともに、この時間があなたの一日の香りとあなたの運命の弧を決定する。これから働くにせよ、一日だれとも会うことも避けるにせよ。この最初の創作とそのリズムからいったい何が現れることとなるのか、前の一日から立ち上る眠りの世界からいったい何が弾きだされるのか、そしてあなたの中からいったいいかなる謎が暴露されるのか。こうしたものごとが、あなたの新しい一日のアイデンティティを形作る。なぜならコーヒーは、最初の1杯のコーヒーは手の中の鏡なのだ。この手がコーヒーに、それをかき回している人物がだれであるのかを明らかにさせる。いうなればコーヒーは、開かれた魂の書物のオープンリーディングだ。そしてあなたがどのような秘密を抱えていようとも、それを暴露してしまう魔女でもあるのだ。

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 鉛でできた夜明けはいまでも海の方向から進行している。いままでわたしが聞いたこともないような音に乗って。海は完全にさまよえる艦隊によって閉ざされた。海洋の自然は金属に変わってしまっている。死とはみなこのような名前を持っているのだろうか?どうしてこんな赤く黒く灰色の雨が、離れ留まるものたちの上に、人々の、木々の、石々の上に降りそそぐことになったのだろう?わたしたちは離れるときに言った。「海から?」かれらは尋ねた。「海から」わたしたちは答えた。どうしてかれらはこの重苦しい大砲をもって波とあぶくを制圧したのだろう?わたしたちの海への歩みを早めるためか?しかし最初にかれらは海の包囲を破ってしまうにちがいない。かれらはわたしたちの血の最後の連なりの最後の通路を片づけてしまうにちがいない。ただ、かれらがそうしないのならば、わたしたちも離れないだけだ。さあ、行こう。コーヒーをたてよう。

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 このあたりの鳥は朝6時には目を覚ます。朝の最初のかすかな光のなかにかれらだけがいることを知ってからというもの、かれらは中立の歌を口ずさむ伝統を保ってきた。いったいだれのためにかれらは、このロケット弾の衝突のさなかに歌うのだろう?かれらはかれら自身のために歌うのだ。わたしたちのためではない。わたしたちは前から気づいていたのだろうか?鳥たちは燃え上がる都市の煙から自分たちのための場所を清め、砲撃のなかかれらを包み込む音の矢をジグザグと進ませ、空の下、安全な大地を指し示すのだ。殺し屋が殺し、戦士が戦うように、鳥は歌う。そしてわたしは、もはや比喩の言葉を探し求めることを停めた。わたしは意味を提示することを完全にやめた。なぜなら戦争の本質は、象徴を貶め、人間の間の交渉と空間と時間をもたらす、そして物質を自然の状態に戻し、わたしたちを、道路の壊れた水道管から噴き出す水によって歓喜させるのだ。

 こんな状況下での水は、わたしたちにとって奇跡のようなものだ、いったいだれが、水には色も味も匂いもないなんて言ったんだ!水は渇きが広がるにつれ、その色を明らかにしていく。水は鳥の歌の色を持つ、ことにスズメのそれだ――鳥たちは海から近づいてくる戦争に注意を払うことはない、かれらのための場所が安全であるかぎり。そして水は、水の味がする、それは小さなスズメが低くはばたくときにきらめく光にも似た輝きの広がる、穂の実りきった小麦のなびく畑から吹く午後のそよ風の香りがする。空を飛ぶすべてのものが飛行機であるということはないのだ(おそらく最低のアラビア語のひとつは「ターイラ〈飛行機〉」だろう。「ターイル〈鳥〉」の女性形だ)。鳥たちはかれらの歌を歌い続ける。海からの大砲の唸りに抗って。だれが水には、味も色も匂いもないなんて言ったんだ?そしてジェット機は鳥の女性形だなんて言ったんだ?

 しかし突然、鳥たちは口をつぐんだ。かれらはおしゃべりといつもの夜明けの滑空をやめた。飛行する金属の嵐が吹き始めたので。かれらはこの鉄の叫びのために口をつぐんだのか、それともその名前と形状があまりに不釣り合いであるからなのか?鉄と銀の二つの翼対羽根でできた二つの翼。鋼線と鉄の鼻が歌でできたくちばしに向かう。ロケット弾の積荷に対して大麦の粒と藁。かれらの空は、もはや安全なものではなくなった、鳥たちは歌うことをやめ、戦争に注意を払う。

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 空はコンクリートの屋根のようにたわむ、海は乾いた大地へと姿を変えていく、空と海はひとつの物質となり、息をすることさえ困難だ。ラジオをつける。何もない。時は凍りついた、時はわたしにのしかかり、首を絞めつけている。ジェット機はわたしの指の間を抜けていく。わたしの肺を突き刺す。どうやったらコーヒーの芳香にたどりつける?わたしはコーヒーの芳香のないまましなびて死んでいく存在なのか?望まない。望まない。わたしの意志はどこだ?

 それはそこで止まっていた。通りの向こう側で。南からわたしたちに迫り来る「伝説」に対して応えを出したこの日。生々しい人体が精神の筋肉をこわばらせ「やつらを通すな、ここから離れないぞ!」と叫んだこの日。生々しい人体は金属に対して立ち塞がった。そして高等数学に対して勝利した。征服者たちは壁によって止められた。死者を埋葬する時間が生まれた。武装する時間が生まれた。そしてわたしたちが望むままに時を使う時間が生まれた。この英雄的行為は続いていくだろう。なぜならわたしたちはいまや時の支配者なのだから。

 パンは土から湧き出し、水は岩から溢れ出す、やつらの砲弾がわたしたちの井戸を掘る。そしてやつらの殺意の言葉が、わたしたちに「ここから離れないぞ!」と歌わせることになった。わたしたちはわたしたちの顔を遠い異国のスクリーンで見た。大いなる約束にわき立ち、確固たるVサインをもって包囲を打ち破ったのを。これからは、わたしたちには失なうものはもはやない。ベイルートがここにあるかぎり。そしてわたしたちは、ここ、ベイルートにいるのだ、異なる故郷の名とともに、意味が海の真ん中と砂漠の端で再び言葉を見つける場所に。こここそが、わたしたちがどこにいようとも、盗まれて消えてしまいさまよったままの意味と言葉と、中心から追い払われて消滅し迷い子となった光のためのテントなのだから。

 しかしかれらは気づくだろうか、この「完全武装青年団」は、武力のバランスを創造的に無視することで、古い歌の始まりの言葉を携えて、手榴弾とビールの火炎ビンを抱えて、防空壕のなかにいる少女たちの切なる願いを連れて、賢明な両親たちの復讐という明確な望みをもって、そしてかれらが、この死のスポーツについて何も知りはしないというそのことをもって、耄碌した理想からの解放のために怒りをこめて武装したのだということを――かれらは気づくだろうか、かれらの傷と独創的な無鉄砲さをもって、かれらは言葉のインク(中世のアクレの包囲から現在のベイルートの包囲まで、連中の目的はすべての中世史への復讐なのだ)を修正しようとする。それは奴隷をもっとたやすく奴隷としておこうとすること以外の何も望もうとしない西洋世界に向けて、地中海の東側のすべての領域を突き動かす行為なのだと。*1

 そしてかれらが包囲の下での包囲に取りかかったとき、かれらは知っていたのだろうか?かれらは驚異の中から現実を日常のなかにもたらし、「伝説」に取って代わり、自己証明から自己証明への運動によって編み出された英雄的行為の秘密によって、「破滅の預言者」の心得違いを暴き出すのだと?男が男であることを試され、女もまた女であることを試されるように。自己防衛に立ち上がるかそれとも自殺するかを選ぶ力を気品ある心が持つように。あるいは独りゆく騎士が、公式の騎士道を待たねばならないかれ個人の武勇と心身両面での英雄的行為を受け入れるよりは、独力でこの傲慢なる場所を引き裂きかれの中に隠された動機への通路を開くという選択をするかのように。ひと握りの人間存在が物事の秩序に反旗を翻すのだとすれば、それはこのような人々だろう。強硬な銃火によってその誕生が鍛えられ、「伝説の防衛者」との衝突がもたらした「圧政の守護者たち」の共謀によってさえも、柵の向こうに飼われた羊の群れとは同一のものとはならなかった人たちだ。*2

 やつらを通すな、この体に命のあるかぎり。やつらを通すときは、やつらがみんな通ってきたのならば、それは精神の抜け出したあらゆる死体を越えてくるのだ。

 そして、わたしの意志はどこだ?

 それは向こうで止まっていた、集団の声の向こう側で。しかし、いまは、わたしはコーヒーの芳香以外の何も欲しくない。わたしは、いま、恥ずかしく思う。恥ずかしく思う、わたしの恐怖を、遠く離れた故郷の地の香りがかれらに守られていることを――その香気をかれらは嗅いだことはないだろう。かれらはかの女の土から生まれたわけではないから。かの女はかれらを生んだ。しかしかれらはかの女から離れて生まれたのだ。かれらはかの女について常日ごろ疲れることも飽きることもなく学んだのだろうけど――。そして抗いがたき記憶と絶え間なき追求によって、かの女のものであることとはどういう意味なのか、かれらは学び取った。

 「あなたはここの人ではありませんね」。かれらはそこでかれらに言った。
 「あなたはここの人ではありませんね」。かれらはここでかれらに言った。*3

 そして、ここそこの間でかれらは、死がかれらの上で自らを祝福するまで、震える弓のように体を伸ばしていた。かれらの両親たちは、ここの客、仮の客となるために、そこを追い払われた。故郷の地の戦場から市民たちを払いのけるために、アラブの土地からの、恥および不名誉による栄誉の追放を正規軍に許すために。昔の歌にあった、「兄弟たちよ、迫害者は破りたくなるような境界をつくるんだ/戦って、そしてわれらはつくろうとする……/突然われらに死が訪れる/むなしき戦い、何も変わらない」。*4この詩が侵略者たちの残余から弾き出されたように、一行一行、国を解放する、この若者たちはここで生み出された。どんなやり方でも――ゆりかごもなく、おそらくは藁のマットかバナナの葉の上、あるいは竹の籠の中で――歓喜も祝宴もなく、出生証明も氏名登録もない、かれらは家族や近所のテントのひとびとの重荷だ。単純にいえば、かれらは余計者だ。かれらにアイデンティティなどないのだ。

 そして最後に何が起こったのか、起こったのか。正規軍は撤退した、そしてこれらの若者たちは、いまだ理由もなく生まれ、理由もなく育ち、理由もなく記憶され、そして理由もなく包囲の下に置かれた。かれらはみんなこの話を知っている――まったくもって宇宙における交通事故か大自然破局のようなこの話を。しかしかれらはまた、かれらの体とかれらの掘っ立て小屋からなる書物から実に多くのことを読みとった、かれらは分離政策について読み、アラブ民族主義の演説を読んだ。かれらはUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)のお触れ書きを読み、警官の鞭を読んだ。*5かれらが育ち続け、難民キャンプと収容所の境界を越えていくようになったにもかかわらず。

 そしてかれらは、征服者たちがかれらの名をかれらのものではない土地に生かし続けるために、岩とオレンジのアイデンティティを捏造するために用いた砦や城の歴史を読むことだろう。歴史は買収されることはないのか?そして、なぜ、そのとき、多くの場所が――湖が、山が、都市が――軍事指導者の名を持ち、かれらが最初に抱いたときの印象を口に出さずに言ったのに、その言葉が今もなお使われているのだろう?「オー、リッド!(何て美しい!)」、これはローマ人の将軍が初めてマケドニアの湖を見たときに言った言葉で、その驚きがその名前となった。これに加えて何百もの名前をわたしたちは、かつて征服者たちによって選ばれたときのまま、その場所を指し示すものとして使っている。そこにおいては敗北からのアイデンティティの解放が困難になってしまうのに。砦と城とは、忘却を保護する時間を委託しないために、名前を護持する試み以上の何かではない。戦争の反-忘却とは、石の反-忘却である。だれも忘れたくなどない、もっと正確に言えば、だれひとりとして忘れられたくなどないのだ。あるいは、もっと平和的に、ひとびとは子どもたちに名を与えて、名の重みと栄光をもって、この世界に生み出していく。この忘却の長きキャラバンに対面しつつも、署名を置き、名の縛りを解こうとする捜索のための二重の作戦には、長い歴史があるのだ。

 なぜそのとき、ベイルートの岸に打ち上げられる忘却の波のごときひとびとが、自然に抗うはずのものと予期されてしまうのか?なぜかれらはかくも記憶を失っているはずだと予期されてしまうのか?そして、だれがかれらのために、鉄板の小屋でのかすかな生の壊れた記憶以外の中身を持った新しい記憶を組み立てられるというのか?

 そこには、かれらにとって、忘れるに足る忘却があるというのだろうか?

 そしてだれが、この場所と社会からの疎外というかれらの想起を止めることのない苦痛のさなかに、かれらが忘れることの手助けとなるのか?だれがかれらを市民として受け入れるのか?だれがかれらを差別と追撃の鞭から守ってくれるのか、「おまえらはここのものじゃない!」。

 かれらはアイデンティティの追求のために存在している。国境にさらされ、伝染病を確認するかのように警報を鳴らされ、そして同時に、まさにかれらのアイデンティティこそがアラブ民族主義の精神として利用されるという特別なものとして言及される。これら忘れ去られたもの、社会の織物から切り離された、これら追放者、仕事と平等の権利を奪われた、は同時にかれらの辛苦に拍手するようにも期待されている。なぜなら、それがかれらに記憶の恵みを与えているのだからと。このようにしてかれは、故郷の地を忘却するという病苦からかれを自由に導く人権からの排除を受け入れる人間であることを期待されるのだ。かれは結核にかからなくてはならない、肺があるということを忘れないために。かれは露天の地で眠らなくてはならない、かれにはもうひとつの空があるということを忘れないために。かれは下僕として働かなくてはならない、かれには務める国があるということを忘れないために。そしてかれは定住の特権を拒否しなくてはならない。パレスチナを忘れないために。単純にいえば、かれはアラブの兄弟たちにとっての「他者」であり続けなくてはならないのだ、解放という固い契りのゆえに。

 よしよし、かれは自分の任務が分かっている。わたしのアイデンティティ―わたしの銃だ。なぜかれはこうして数限りなき告発――トラブルを起こす、歓待のルールを侵す、問題を生みだす、武器の所有を広げる――に立ち向かっていくのか?かれが平和を手にするとき、かれの魂は野良犬に差し出される。そしてかれが故郷の地を踏むとき、かれの体は犬の前に引き出される。最新モデルの理論を試す余裕のある知識人たちは、かれが現状の体制に対する唯一のオルタナティヴだと説得する。しかし現状の体制がかれに襲いかかるとき、かれらは、かれがかれの愛国心から遠く離れてしまった、かれが現状の体制の折り目を越えてはるか彼方に行ってしまった、と自己批判を要求する。状況は熟していない、状況はまだ熟していない。かれは待たねばならない。かれは何をすべきなんだ?ベイルートのコーヒーショップで生涯おしゃべりして暮らすのか?かれはもうずっと長いこと、ベイルートがかれを堕落させてしまったと、ペチャクチャと言われてきたのに。

 社交界のご婦人方は、国で生まれたものたちによる義勇軍(ムジャッダラ)の防衛のためのパーティーで、宝石をジャラジャラさせながらスピーチをする。そのときかれは困惑を覚え、故郷とは米とレンズ豆の料理のことではありませんねとかいう趣旨の話をする。そしてかれが国外で、国境の上で武器を取ったときには「国境を越えてるぞ」とかれらは言うのだ。そしてかれが自分自身を守るために国内で武器を使えば、シオニズムの手先相手であっても、「地域社会の迷惑だ」とかれらは言う。いったい何をしたらいいというのだ!いまだ存在してもいない実存のために謝罪すること以外に、この自己批判の過程を終わらせるために、いったいかれに何ができるのか?そこに行くことはない、ここに属することはない。この二つの否認の間で、この世代は、かれらが知ることのない国の香気を撒き散らす人体のように象られた蒸留酒の瓶を守って生まれてきた。かれらは読んだものを読んできた。かれらは見たものを見てきた。そしてかれらは敗北が不可避であると信じることはない。だからかれらはその香気に導かれて出発するのだ。

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*1:「完全武装青年団」<"RPG=ロケットプロペラ弾=キッズとして知られている>はレバノンの難民キャンプで生まれたパレスチナ人の子どもたちである。パレスチナレバノンの正規軍の傍らで、かれらはイスラエルの侵略に対してきわめて英雄的な抵抗を見せた

*2:「伝説」とはイスラエル陸軍の呼び名であり、「破滅の預言者」とはアリエル・シャロン、1982年のレバノン侵攻を開始したイスラエル防衛相、のことであろう。「圧政の守護者たち」はアラブの指導者たちのことであり、「伝説の防衛者」は、この後にも登場するが、当時のイスラエル首相、メネヘム・ベギンの呼び名である

*3:全編を通じ、「そこ」と「ここ」は、テキストの中で大きな二つの経験の極として繰り返される。パレスチナ=そこ、とレバノン=ここという呼ばれ方で

*4:1948年のパレスチナ喪失のあと、エジプト人歌手ムハマッド・アブド・アル・ワッハーブ<本書では後でもかれについて参照する>、によってこの詩は書かれた。ダルウィーシュにとっては、革新的かつ実験的な詩人であり、この詩は古典的アラビア詩の形式である「カシーダ」の退嬰的な用法を象徴している。この詩に続く、「一行一行、国を解放する」という一文はきわめて苦く皮肉なものだ。このような種類の詩がいまでも書かれている一方で、実際には国は失なわれた。この詩の内容は、この本で見る詩人にとって、別の形での退嬰の形式を表現してもいる。それは1967年以前のアラブ世界における全般的な政治的言説と、特にイスラエルに対する言説の空虚を示す。アラブ世界の1967年の敗北<アラブ近代史における分岐点であり、この本における主要なテーマでもある>は多くの知識人にとって、すべての戦線における刷新の必要性に関して、目を覚まさせるものであった

*5:UNRWA国連パレスチナ難民救済事業機関、は1950年にアラブ諸国の難民キャンプに暮らすパレスチナ人を保護するために、「難民問題の解決などないということが明らかになったよう」な時期に設立された。Charles C. Smith,Palestine and the Arab-Israeli Conflictp.152による