『忘却症のための記憶』(1)


 ひとつの夢が覚めて、またひとつの夢が生まれる――。

   ――だいじょうぶ?わかる、生きてるの?
   ――どうやってわかった、この時間に、おれがあんたの膝に頭をのっけて眠ってることが?
   ――あなたが、わたしの腹のなかをひっかきまわしたんで、目を覚まされたのよ。わたしはあなたの墓石だったのね。生きてる?聞こえる?
   ――そういうことだったのか。ひとつの夢から覚めて、また別の夢を見る。それもまた、その夢の解釈だったのかな?。
   ――そうでしょう。あなたに起こったことが、わたしにも起こったのよ。生きてる?
   ――だいたいは。
   ――悪魔に呪文でもかけられた!
   ――わからない。しかし早いうちに死で満たされることになるだろうな。
   ――完全に死んじゃだめよ。
   ――そうならないようにしてみるよ。
   ――ちょっとでも死んじゃだめよ。
   ――そうならないようにしてみるよ。
   ――教えて。何が起こったの?わかる、わたしたちはいつ会った?わたしたちはいつ別れた?
   ――13年前だ。
   ――よく会ってた?
   ――二度だ。一度は雨のなか。もう一度も雨のなか。三度目は、まったく会ってはいない。おれは去ってしまって、おまえのことを忘れた、そしてその間、おれは覚えていた。おれは、おれがおまえを忘れてしまったことを覚えていた。おれは、夢を見ていたんだ。
   ――それは、わたしにも起こったことよ。わたしも、夢を見ていたの。わたしはあなたの電話番号を、ベイルートであなたに会ったというスウェーデン人の友人から聞いたわ。おやすみなさい。死なないということを忘れないで!わたしにはまだあなたが必要なの。そして生きて帰ってきたら電話して。月日の経つのは早いものね!13年!いや、すべては昨夜起こったことなのよ。おやすみなさい!

   ==========

 午前3時、夜明けは銃火に乗ってやってきた。悪夢は海からきた。金属の雄鶏、硝煙。金属は主人を金属の饗宴で迎えようと準備に勤しんでいた。夜明けは、まだ訪れようとするまえに、炎となって燃え上がっていた。叫び声がわたしをベッドから追い払い、この狭い廊下に投げ出した。わたしは何も欲しくはなかった。わたしは何も望まなかった。わたしはこの大混乱のなかに脚を運ぶことができなかった。注意を促す時間はなかった。時間そのものがなかった。もしも分かっていたとしたら――それ以降流れ続けることになる死の破壊を調和させるすべを知っていたのなら、この中断されることなき砲撃のカオスのなかで自分自身を守ろうとする必死の努力からもはや自分のものとは思えなくなった体を支えようとする叫びを解放するすべを知っていたのなら。「もう充分だ!」「もう充分だ!」。わたしはささやく。わたしをわたし自身に導く何ごとかをまだできるのではないかと。そしてこの六つの方向に開かれた奈落の底を指し示すことができるのではないかと。わたしはこの運命に屈することはできない。しかし抗うこともできない。鋼鉄は唸り声を上げる。ただほかの鋼鉄に吠え返そうとして。金属の熱気が、この夜明けの歌となった。

 この地獄絵図が、もし5分間の休憩を取ったのならば、その後に何が起こるのだろう?たった5分間!わたしは口に出して言った。「5分間だけ。そのあいだにできるたったひとつの準備なんて、生きるか死ぬかの覚悟を決めるくらいだな」。5分間で充分か?そうだ、この廊下を這い出るには、寝室に、書斎に、水の張られていない浴室に開かれた、台所に開かれたこの廊下から抜け出すには充分だ。ここでわたしはこの1時間ほど、ここから飛び出そうとしていた。しかし動くことができなかった。わたしは、まったく動くことができなかった。

 2時間前、わたしは眠りについた。わたしは耳を綿で塞ぎ、最終のニュースを聞きながら眠りについた、そこではわたしが死んだとは報じられてはいなかった。ということはわたしはまだ生きているのだろう。わたしは体のあちことを点検し、すべてがそこにあることを確認した。目が二つ、耳も二つ、長い鼻、足指が下に10本、手指が上に10。真ん中に指1本。もちろん心のなかでのことだ。見えるものではない。そして、自分の脚を数える常軌を逸した能力を別にすれば、何かを指し示すものなどないことに気がついた。そして書斎の棚に横たえたピストルのことを思い出した。エレガントな拳銃で――清潔で、輝いていて、小さくて、空っぽの。一緒に一箱の銃弾ももらったはずだ。ただ2年も前に、どこか分からない場所に隠してしまった。愚劣な行為をおそれ、行き場のない怒りの表出をおそれ、はぐれた銃弾をおそれて。その結果として、わたしは生きている。もっと正確にいえば、わたしは存在している。

 だれもわたしが、立ち上る硝煙とともに送った願いを気に留めることはないだろう。わたしには5分の時間が必要なのだ。この夜明けを書き留めるために。わたしがそれを分かちあうために。その両脚で立ち上がって、この叫びが生まれるこの一日のなかに乗り込んでいく、その準備のために。わたしたちは8月にいるのか?そう、わたしたちは8月にいる。

 戦争は包囲へと変わった。*1わたしはこの時間のニュースをラジオで聞こうとしたが、それは三番目の手のように無駄なことだった。そこにはだれもいなかったし、何のニュースもなかった。ラジオはまるで、眠っているかのようだった。

*1:David Gilmoure,Lebanon;The Fractured Country.(New York:St.Martin's Press 1983)を参照。レバノンの包囲は侵攻(6月6日)の1週間後に始まり、その後2カ月にわたって続いた。ベイルートは6月13日から8月12日までの間、6月の終わりと7月の半ばの二度の短い中断を除いて、恒常的に爆撃された。この期間、空爆海上射撃、砲弾による弾幕(155ミリ銃と122ミリ榴弾砲による)、戦車からの砲撃、追撃砲とロケット弾による攻撃が行われていた